ふるさと探訪『親不知・子不知(新潟県糸魚川市)』

親知らず 

子はこの浦の波枕

越路の磯の泡と消え行く

平頼盛の妻

 

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概要

親不知(おやしらず)は、新潟県糸魚川市の西端に位置する崖が連なった地帯。市振から勝山までの約15キロメートル (km) 程の地域を指す。

正式には『親不知・子不知(おやしらず・こしらず)』といい、日本海の海岸の断崖絶壁に沿って狭い砂浜があるだけで古くから交通の難所として知られる。
飛騨山脈(北アルプス)の日本海側の端に当たる。親不知駅がある歌(うた)の集落を中心に、西の市振(いちぶり)地区までが親不知、東の勝山(かつやま)地区までが子不知(こしらず)とよばれており、併せて親不知子不知ともよばれる。市振から勝山までは約15キロメートル (km) 程の距離である。

日本海に面する断崖は、飛騨山脈の北端が日本海によって侵食されたために生まれたもので、崖の高さは300 – 400メートル (m) ほどある。

 

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「親不知」の名称の由来

「親不知」の名称の由来は幾つの説がある。

断崖と波が険しいため、親は子を、子は親を省みることができない程に険しい道であることから、とされている。

また次のような伝承もある

壇ノ浦の戦い後に助命された平頼盛は、越後国蒲原郡五百刈村(現在の新潟県長岡市)で落人として暮らしていた。このことを聞きつけた奥方は、京都から越後国を目指して、この難所に差し掛かった。しかし、難所を越える際に、連れていた子供が波にさらわれてしまった。その時、次の歌を詠んだ。
「親知らず、子はこの浦の波枕、越路の磯の泡と消え行く」

以後、その子供がさらわれた浦を「親不知」と呼ぶようになったといわれている。

 

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古典にみる親不知の逸話

かつて越後国と越中国の間を往来する旅人は、この断崖の下にある海岸線に沿って進まねばならず、古くから北陸道(越路)最大の難所として知られてきた。波間を見計らって狭い砂浜を駆け抜け、大波が来ると洞窟などに逃げ込んだが、途中で波に飲まれる者も少なくなかったといわれる。

 

古くは聖徳太子が羽黒山参詣の途中、この地で駒を都に返したと伝えられている。

 

源平争乱の時代には、木曽義仲が京に攻め上るとき、ここで愛馬を木曽に返したといわれ、「駒返し」の地名も残っている。

 

源義経殿の一行はこの磯づたいの道を通って、奥州平泉へ向かったといわれる。その際弁慶はここを通過するとき、波に襲われ、何度も岩にしがみつくうちに、髭が剃れてしまったという「弁慶髭剃り岩」などもある。

シーカヤック親不知探訪記・・・12キロの冒険ごっこ - 縄文人(見習い)の糸魚川発!
糸魚川市の名所の一つ、親不知はここ数十年で急激に進んだ海岸浸食により砂浜が分断されて、現在は陸地を通り抜けることができなくなっている。正確にいえば新潟県西端の市振から歌集落、つまり親不知駅周辺、もっと解り易くいえば親不知ピアパークまでが親不...

「波除観音」「ひげそり岩」・・・北緯36.994 東経137.70
ピアパークからの距離3.8キロ  
鵜の岩の西側。親不知観光ホテル東側の階段を降りてから海岸を東に歩いた突き当りがひげそり岩で、ひげそり岩の北側の断崖に波除観音がある。

 

地形的に軍事的な要衝にもなっていた。承久3年(1221年)の承久の乱では、朝廷側が親不知西側の市振で防衛線を展開。越後側から進軍してきた北条朝時を迎え撃ったが、1日のうちに撃破されている。

江戸時代、参勤交代制度が始まると加賀藩主が親不知を往来した。参勤交代時には、富山県側の新川郡から400 – 500人の波除人夫が集められ、人垣により波濤を防いで通行した。

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北陸街道開通(1883年(明治16年)12月)

明治時代、明治天皇の北陸・東海両道巡幸の際に危険な親不知ルートを迂回して山道を通ることになったのを切っ掛けに1880年(明治13年)に新潟県会で新道開発の議決がなされた。

1882年(明治15年)5月に着工、1883年(明治16年)12月になって初めて、断崖を削って北陸街道(現:国道8号にあたる)がつくられた。

「矢如砥如(とのごとく やのごとし)」

【断崖絶壁を縫って全て人力で行なわれ、苦難を極めたと語り継がれている。その道路完成を記念し、道路の上にある日本海に面した一枚の大岩盤面に、約1メートル角の四大刻字で

「如砥如矢(とのごとくやのごとし)」と刻まれた。

この工事に尽力した青海の人、富岳磯平の書とされる。

その意は、「(この道路は)砥石のように平らで、矢のように真っ直ぐである。」と賞賛したもので、現在も親不知のコミュニティロードで見ることができる。

 

 

 

その後1912年(明治45年/大正元年)に北陸本線(現:えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン)が開通している。

国道については、その後子不知地区8.2 kmが1933年(昭和8年)から3年間・親不知地区6.3 kmが1936年(昭和11年)から4年間道路改築が進められ、幅員5.5 m – 6.5 mが確保されることになった

 

駒返洞門が完成した1958年(昭和33年)に建設省北陸地区建設局により調査着手し、1963年(昭和38年)に工事開始、1967年(昭和42年)に全線が2車線の本格的な自動車道として完成した。その後も歌バイパスの整備やロックシェッドを主とする二次改築工事などが進められた。

鉄道・国道の2路線は上記の様にいずれも防災対策からのちにルート変更が行われており、この区間には放棄された旧線・旧道が散見される。

1971年(昭和46年)、国道8号天嶮トンネル東口付近から栂海新道(登山道)が開通し、標高ゼロメートルから北アルプスの縦走に挑める登山道の玄関口となった。

 

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北陸自動車道開通(1988年(昭和63年)7月)

1988年(昭和63年)7月20日には、北陸自動車道が開通した。北陸自動車道は用地の問題から親不知IC付近を海上高架橋により通過しており、難所におけるルート選定の苦労を偲ぶことができる。

また、その一方で道路から断崖絶壁と砂浜、岩礁、洞窟が織りなす海岸美を堪能することもでき、景勝地となっている。

 

 

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北陸新幹線開通

なお、2015年(平成27年)に開通した北陸新幹線は、この区間の山側を青海トンネル・新親不知トンネルをはじめとするトンネルで通過している。

 

 

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名称の由来

「親不知」の名称の由来は、幾つかの説がある。一説では、断崖と波が険しいため、親は子を、子は親を省みることができない程に険しい道であることから、この名が付いたとされている。

また、以下のような伝承もある。

壇ノ浦の戦い後に助命された平頼盛は越後国蒲原郡五百刈村(現在の新潟県長岡市)で落人として暮らしていた。都に住んでいた妻はこのことを聞きつけて、夫を慕って2歳になる子を連れて京都から越後国を目指した。しかし、途中でこの難所を越える際に、連れていた子供を波にさらわれてしまった。悲しみのあまり、妻はその時のことを歌に詠んだ。
「親不知 子はこの浦の波枕 越路の磯の 泡と消え行く」
以後、その子供がさらわれた浦を「親不知」と呼ぶようになったとする伝説もある。

 

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観光案内

親不知記念広場展望休憩所

親不知記念広場展望休憩所 クチコミ・アクセス・営業時間|糸魚川
親不知記念広場展望休憩所を実際に訪れた旅行者が徹底評価!日本最大級の旅行クチコミサイト フォートラベルで親不知記念広場展望休憩所や他の観光施設の見どころをチェック! 親不知記念広場展望休憩所は糸魚川で8位の名所・史跡です。

 

 

「天険コミュニティ広場」

見学の起点は、国道8号線沿いにある「天険コミュニティ広場」という駐車場。付近は片側1車線の坂道で、交通量が多いため、うっかり通りすぎると引き返すのが大変です。事前に場所を把握しておくことをおすすめします。上記の写真の親子像を目印に訪れると良いでしょう。公衆トイレも併設されています。
なお、反対車線側は、北アルプスへ続く登山道の入り口(栂海新道)となっており、こちらにも10台ほど車が止められるスぺ―スが存在しています。
駐車場からの所要時間は、コースによって異なります。
■周遊コース:60~90分。旧国道や100年以上前のトンネルなど、土木遺産も味わえる。
■お手軽コース:30~40分。海岸に行って直ぐに戻る。時間がない時におすすめ。

お手軽コースは往復30~40分。波打ち際へGO!

https://www.pref.niigata.lg.jp/uploaded/attachment/196930.pdf

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