1868年(慶応4、明治元)
1月3日(新暦1月27日):
鳥羽伏見の戦い
3月9日(新暦4月1日):
梁田の戦い
川村与十郎らの率いる薩摩藩、長州藩、大垣藩の軍勢(新政府軍)と、古屋佐久左衛門隊(衝鋒隊)が梁田宿(現:栃木県足利市梁田町)で衝突し、新政府軍の勝利に終わった。
3月15日(新暦4月7日):
北陸道先鋒総督・高倉永祐、越後高田に到着
3月16日(新暦4月8日):
河井継之助、松平定敬らが、エドワード・スネルのプロシア船で横浜沖を出港
3月16日(新暦4月8日):
高田会議
越後高田の北陸道先鋒総督・高倉永祐、越後11藩の重臣を呼んで、藩主に勤王の請書、領内の簿籍等の提出、さらに軍資金と兵士の供出を求める。
3月22日:
古屋佐久左衛門隊(衝鋒隊)、会津領に入る。
3月23日(または26日)(新暦4月15日):
河井継之助、松平定敬らを載せたエドワード・スネルのプロシア船、新潟入港。
3月24日(新暦4月16日):
河井継之助、長岡に帰藩。
3月29日(新暦4月21日):
衝鋒隊、会津藩預地水原奉行所に進駐。
今井を使者に立て新政府寄りと見られていた新発田藩に脅しをかけ、1000両の献金を脅し取る。
4月1日(新暦4月23日):
衝鋒隊約200人が新潟町に入る
西堀浄泉寺に入った。
その後うち100人は浄泉寺の隣、正福寺に移った。町民に対し横暴な態度で略奪をおこなった。
この時、新潟町の治安を預かっていた旧幕府の奉行が不在だったこともあり、対応に困った町会所に集まった町役人たちはかつての領主長岡藩に解決を依頼した。
河井継之助が単身新潟町に乗り込み、櫛屋旅館に入り隊長の古屋作左衛門を呼び出して町を出るよう説得した。結果衝鋒隊は新潟町を離れることとなった。
4月9日(新暦5月1日):
衝鋒隊、新潟を出発
4月11日(新暦5月3日):
江戸城無血開城
4月19日(新暦5月11日):
衝鋒隊、高田城下を通過し新井宿に入る
4月22日(新暦5月14日):
衝鋒隊、「遠運動」と称し、信州飯山藩に進軍
4月25日(新暦5月17日):
飯山戦争
尾張・松代藩連合が衝鋒隊に攻撃。
4月25日(新暦5月17日):
近藤勇、板橋刑場で横倉喜三次、石原甚五郎によって斬首。享年35(満33歳没)
4月26日(新暦5月18日):
・高田藩、衝鋒隊に旧幕領、川浦代官所へ移るように要請。
・高田藩、衝鋒隊を急襲(川浦戦争)
閏4月8日(新暦5月29日):
東山道総督府軍監・岩村精一郎は新政府軍各藩の代表者を集めて協議を行い、高田藩が謝罪しない場合は武力討伐することが決定。これを受けて高田藩は謝罪するとともに、以後、新政府軍の先鋒となり忠誠を尽くすことを誓約した。
閏4月20日(新暦6月10日)
閏4月21日ー24日(新暦6月11日ー14日):
三国峠の戦い
閏4月26日(新暦6月16日):
芋坂・雪峠の戦い
閏4月27日(新暦6月17日):
・小出戦争
・鯨波の戦い
5月2日(新暦6月21日):
慈眼寺会談決裂
5月4日(新暦6月23日):
長岡藩、奥羽列藩同盟に参加表明(奥羽越列藩同盟が結成)
越後の”蒼き龍”ついに起つ。
5月10日(新暦6月29日):
榎峠の戦い
5月13日(新暦7月2日):
朝日山の戦い
5月15日(新暦7月4日):
上野戦争
5月19日(新暦7月8日):
長岡城落城(1回目)
5月22日(新暦7月11日):
加茂軍議
5月22日(新暦7月11日):
西園寺公望、直江津今町港に到着
5月23日:飯能合戦 ( 飯能の戦い )
7月11日(新暦8月28日)(異説として7月16日):
村上藩の第8代藩主・内藤信民候死去。享年19。
7月24日(新暦9月10日):
八丁沖徒渉作戦開始
7月25日(新暦9月11日):
長岡城奪還
7月25日(新暦9月11日):
新発田藩裏切り
新政府群 大夫浜上陸
石原倉右衛門殉難遺蹟(新潟市北区松浜本町2丁目9-3)
7月26日(新暦9月12日):
新政府軍、阿賀野川河口渡河
7月29日(新暦9月15日):
新潟総攻撃開始、関屋戊辰戦争
・金鉢山公園:北越戊辰戦争時の新政府軍の本拠地。現在の金鉢山公園の頂に陣を構えていたとされている。金鉢山を公園化するにあたり造成工事を行ったところ戊辰戦争時のものと見られる遺骨や軍刀などが見つかっており、未だ両軍の殉難者の遺骨の多くが金鉢山公園を中心とした関屋地区一帯に埋まっているとも言われている。
・戊辰公園(新潟市中央区関屋下川原町)、色部長門君追念碑
7月29日(新暦9月15日):
長岡城落城(2回目)
8月1日:
赤坂山の戦い
8月2日:
河井継之助、見附を出発
8月5日(新暦9月20日):
河井継之助、只見に到着
8月5日(新暦9月20日):
梨ノ木峠の戦い:東軍と西軍の戦闘があった地
8月6日(新暦9月21日):
会津藩野尻代官・丹羽族(にわ やから)自害:
慶応4年8月、長岡藩士やその家族が只見に避難した。
会津藩の野尻代官・丹羽族は只見代官所に常駐して食料の確保に奔走したが困難を極めた。
万策尽きた丹羽は責任を感じ、8月6日に死をもって償った。
8月11日(9月26日):
村上城落城
8月11日:
米沢藩降伏
8月12日:
榎峠の戦い
新潟県関川村沼と大内淵を結ぶ峠
8月14日:
角石原の合戦、赤谷の合戦
8月16日(新暦10月1日):
河井継之助死去、享年42
パンフレット「河井継之助の足跡をたずねて~北越戊辰戦争史跡めぐり~」
8月21日(新暦10月6日):
母成峠の戦い
8月23日(新暦10月8日):
新政府軍 若松城下突入、白虎隊自刃
西郷頼母一族自刃:新政府軍が城下町に乱入したとき、家族ら21人は、邸宅で辞世の句を残して自決しました。妻・千重子の辞世の歌「なよたけの碑」は墓とともに市内善龍寺にあります
8月25日(新暦10月10日):
柳橋(涙橋)の戦い
8月26日(新暦10月11日):
小名部口の戦い
8月29日:
米沢藩降伏
9月1日(新暦10月16日)~:
鼠齧岩での戦い開戦
9月10日(新暦10月25日)~:
関川、雷の戦い
9月10日、この夜悪天候の中、新政府軍奇襲隊は羽越国境の最東部、山あいの関川口、雷峠~関川に迂回隊による奇襲攻撃をかけた。
9月11日、挟み撃ちとなった村上藩兵と庄内藩兵は敗走した。この戦いで村上藩浅井土左衛門が捕虜となり、降伏を拒否し、斬首された。また重傷を負った梅沢吉三郎は自決した。
この後、村上・庄内藩兵は関川で奪還作戦を実行するが、成果はなく、以後、こう着状態が続いた。
9月15日:
仙台藩降伏
9月22日(新暦11月6日):
会津藩降伏
9月23日(新暦11月7日):
9月23日:
庄内藩降伏
9月27日(新暦11月11日):
村上藩降伏
1869年(明治2年)
6月25日(新暦8月2日):
鳥居三十郎、安泰寺にて切腹。享年29。
村上藩は斬首という政府の命令を無視して安泰寺に切腹の場をもうけ、抗戦派藩士として三十郎とともに戦った山口生四郎が介錯をつとめた。
同日夕刻、三十郎は切腹。
遺体は翌日、市内の宝光寺に埋葬された。
11月5日(新暦12月7日):
大村益次郎死去。享年45。