人物
山本帯刀(弘化2年3月7日(1845年4月13日)ー明治元年9月9日(1868年10月24日))は江戸時代後期の武士、越後長岡藩上席家老(在所家老)、軍事総督。
家臣中次席の家柄・知行1300石。諱の義路よりも通称の帯刀の方が広く浸透し、一般には山本帯刀(やまもと たてわき)として知られる。
幼い頃から読書を好み、また剛毅英邁・槍刀弓馬いずれも練達の武士文武両道で、「神童」と言われていたという。
帯刀は「常在戦場」を旗印とする長岡藩の武門の象徴である名跡、家老の山本家を継ぐ。
殿軍として多くの同盟軍兵士や藩士家族、領民を守り抜く
北越戊辰戦勝では長岡藩の大隊長として出陣。緒戦の「榎峠の戦い」から常に先陣にあり、「今町の戦い」「八丁沖の戦い」でも、河井継之助の前にはいつも帯刀がいた。
継之助が負傷してからの会津への転進では、最も危険な鞍掛峠(別名八十里峠)で殿軍(しんがり)を務め、8月6日から約20日間、多くの同盟軍兵士や藩士の家族そして領民を守り抜いた。
会津での奮戦
2度目の長岡城落城後、藩主一家は仙台藩に、長岡藩兵は、仙台藩と米沢藩に逃れたが、山本隊は鞍掛峠(別名八十里峠)で殿を務めた後、米沢に向かわずに会津藩兵と合流。
奥羽越列藩同盟の盟主・会津若松城主松平家を守るため、会津・飯寺(にいでら)村で遊撃隊として官軍(主力は徳川譜代の宇都宮藩兵)を相手に奮戦した。
会津城下に入ってからの山本部隊は、新政府軍が充満するなかで、常に死と隣り合わせの遊撃隊となった。
慶応4年9月8日、飯寺村(にいでらむら)の新政府軍を攻撃した。しかし同盟軍の連携の拙さが露呈し、飯寺方向に突撃した山本隊は濃霧の中で敵陣に孤立。敵味方の判らぬ状態では攻撃することもできず、次々に銃撃された。
山本隊は壊滅し、大隊長山本帯刀をはじめ三十余名が捕縛された(会津飯寺の戦い)。
「藩主われに戦いを命ぜしも、未だ降伏を命ぜず」
越後口軍監等は義路の人物を惜しんで、詫びて恭順すれば命だけは助けるとの内旨があったと云われるが、義路はこれを拒絶したうえ、
「藩主われに戦いを命ぜしも、未だ降伏を命ぜず」
と陳述し、頑ととして降伏を拒否したいわれる。
翌9月9日に、三河国牛久保城以来の牧野家譜代の長岡藩士・渡辺豹吉と共に阿賀野川(大川)の河原で斬首された。くしくも慶応から明治に改元された9月8日のできごとである。
現在の福島県会津若松市門田町飯寺大字川原がその場所にあたる。
継之助の改革を率先垂範して実行した侍。
もし帯刀の存在がなければ、継之助の名声は後世には残らなかったかもしれないともいわれている。
「大隊長の山本帯刀は、譜代家老で、齢はまだ数えて二十四でしかない。
少年のころから継之助を尊敬し、長ずるとほとんど門人のようになった。
好学のひとで気性がいかにもすずやかであり、それに名門の当主であるために一軍の隊将としてはきわめて適格とされていた。」
(司馬遼太郎「峠」より)