『奇跡の名馬』
JRA賞年度代表馬(1991年)、最優秀4歳牡馬(1991年)、最優秀父内国産馬(1991年)、JRA特別賞(1993年)、顕彰馬(1995年選出)。
主な勝ち鞍は1991年皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、1992年ジャパンカップ、1993年有馬記念。
生涯成績 12戦9勝。
もちろんこの実績は十分素晴らしいのだが、成績だけならこの馬より実績のある馬はいくらでもいる。ディープインパクトしかり、オルフェーヴルしかり…
しかし「記録以上に記憶に残る名馬」としては、この馬が一番ではないか。
強さと儚さ(はかなさ)を併せ持った比類なき才能
そして何より人々を魅了したのは、3度の骨折から奇跡的によみがえるという、悲劇的でドラマチックな競走馬としての生涯だろう。
ダービーに勝利して菊花賞取れば3冠というところで左第3足根骨骨折し、全治6か月。
約1年後、産経大阪杯で勝利するも、無敗のまま迎えた天皇賞(春)で5着に敗れた10日後に右前脚の剥離骨折が判明。
休養明けからいきなり天皇賞(秋)に出走し、7着に終わり、「テイオーは終わった」と言われるも、次走のジャパンCでは並みいる外国産馬を制して復活の勝利。
その勢いで1番人気でおされた有馬記念は、出走直後に負傷し11着と惨敗。
翌年、左前トウ骨の剥離骨折が判明し、三度目の休養。364日ぶりの復帰レースとなる有馬記念で並みいる強豪を相手に奇跡の復活。
傷ついても傷ついてもよみがえる強さと壊れやすさを併せ持つところがファンにはたまらない魅力になったのであろう。
七冠馬、『皇帝』シンボリルドルフ産駒としての宿命
記憶に残る名馬たち3: THE KING OF HORSE(特別付録付Ver)
真実良 (著)
トウカイテイオー(欧字名:Tokai Teio)は1988年(昭和63年)4月20日、北海道新冠町の長浜牧場で誕生。生まれて小一時間ほどですっくと立ちあがったという。
牧場主の長浜スミ子さんは生まれたばかりのテイオーの印象として
「ずいぶんヒョロっとして脚の長い馬だなあ」と思ったという。
家族経営の長浜牧場。50年の牧場の歴史で、トウカイテイオーは初のクラッシック馬であった。
父は競走馬時代に無敗で制したクラシック三冠を含むGI競走7勝を挙げ、「皇帝」と称されたシンボリルドルフ。母トウカイナチュラル。シンボリルドルフの初年度産駒の一頭。
母・トウカイナチュラルは優駿牝馬(オークス)優勝馬トウカイローマンの半妹であったが、脚元に難があったため競走馬としてデビューできずに繁殖入りしていた。ナチュラルとローマンの馬主・内村正則は、ルドルフの種付け株を手に入れた当初はローマンをその交配相手に考えていたという。
しかし、当初5月の新潟大賞典で引退予定だったローマンは同レースで2着に入ったことで1年の現役続行が決まったため、代役の形でナチュラルとの交配が行われたという。
馬主・内村正則氏
馬主の馬主の内村正則氏はゴム製品製造会社「東海パッキング工業株式会社」社長。
冠名の「トウカイ」は会社名より。主な所有馬はトウカイローマン(1984年優駿牝馬、1987年京都大賞典)、トウカイポイント(2002年マイルチャンピオンシップ、中山記念、香港マイル3着)など。
内村氏は牧場で最初の所有馬となるトウカイクインと出会う。トウカイクインが6勝を挙げたことを1つのきっかけに、内村は競馬に深い興味を抱き、同馬の血統を詳しく調べた。
この際に曾祖母ヒサトモが1937年に東京優駿大競争(現在の日本ダービー)を初めて制した牝馬で、その後も帝室御賞典(現在の天皇賞)などを制した名牝ヒサトモあることを知り、内村は「いつか大物が出る系統」と思い定め、ヒサトモの子孫を次々と購買し、その系統を保護し、牝系を繋いでいった。一時は消滅寸前であったヒサトモの牝系を復興させた立役者となった。
果たしてそれは十数年を掛けてトウカイクインの末裔から結実し、ヒサトモの5代孫であるトウカイローマンが1984年に優駿牝馬に優勝、さらにその甥に当たるトウカイテイオーが現れることなる。
トウカイテイオーは、ヒサトモがいて内村オーナーがいてこそ誕生した。
幼駒時代
父の異名「皇帝」からの連想で、牡駒は出生直後より「テイオー(帝王)」と呼ばれ、幼名は「ハマノテイオー」とされた。
幼駒の頃のテイオーは脚が長く華奢な身体付きで、一見して見栄えは良くなく、それほど高い評価は受けていなかった。しかし運動を始めると非常に柔軟性のある動きを見せ、関係者の期待を集めた。
翌1989年10月、育成調教のため平取町の二風谷軽種馬育成センターに移動。
ここでも馬体の柔軟性、そして他馬の前に出ようとする勝負根性が高く評価された。松元によると、誕生時には貧弱に見えていた馬体がこの頃には「びっくりするほど良くなっていた」という。
その後約1年間を二風谷で過ごし、競走年齢の3歳となった1990年10月、栗東トレーニングセンターの松元省一厩舎に入る。
競走名は幼名から冠名を替え「トウカイテイオー」で登録された。
デビューまで
栗東トレーニングセンターの調教では、ストライドの大きい馬は好タイムが出ないとされる坂路コースで際立った動きを見せ、松元に大きな期待を抱かせた。
松元はクラシックを狙える馬であると感じ、皐月賞、東京優駿から逆算しての、余裕を持ったローテーションを企画した。
調教助手を担当することになった北口浩幸はその乗り味に驚き、自厩のスタッフをつかまえては
「とにかく乗ってみてよ。こんな柔らかい馬はちょっといないよ」と絶賛し、実際に跨った者からは賞賛する言葉が相次いだという。
装蹄師の柿元純司はテイオーの柔らかい繋(つなぎ)に驚き、
「ダービー馬が来たな」と口にしたという。
親子二代『無敗のクラシック三冠』への期待
1990年12月1日、中京競馬場の新馬戦でデビュー。騎手は松元厩舎の馬に多く騎乗し、デビュー前の調教にも本馬に乗って自ら騎乗を志願した安田隆行が務めた。
安田が手綱を抑える余裕を見せて4馬身差をつけて勝利。安田はレース後に興奮気味に「手ごたえに余裕があり、楽勝でした」とコメントした。
次走のシクラメンステークスは3番人気となったものの、後続に2馬身の差をつけてそのまま押し切デビュー2連勝を記録した。
1991年1月の若駒ステークスでは単勝オッズ1.3倍と圧倒的な1番人気に支持され、ナイスネイチャ、イイデサターンを突き放し3連勝を果たした。
安田は若駒ステークスについて、「東に行っても間違いなく通用する。大きいところに出ても勝負できると、はっきり自信がつきました」と振り返っている。
これでテイオーはクラシックへの有力候補として、またシンボリルドルフ初年度産駒の逸材として注目を集めるようになった。
第4戦、中山での若駒ステークス。弥生賞のレース後に勝利したイブキマイカグラ鞍上の南井克巳が「関西にはもう一頭強い馬がいる」とトウカイテイオーを評したコメントが関東のファンにも知られていたことで、当日は生涯最高となる66.28パーセントの単勝支持を受け、単勝オッズは1.2倍を記録した。
2着のアサキチに2馬身差で勝利を収め、デビューから4連勝、全戦で一度も鞭を使われない完勝という内容で、牡馬クラシック初戦の皐月賞を迎えることとなった。
クラッシック初戦・皐月賞
1991年4月14日、皐月賞(中山)ではイブキマイカグラとともに単枠指定を受ける。
単勝オッズは前哨戦の弥生賞を制していた同馬を抑え、2.1倍で1番人気に支持された。2着のシャコーグレイドに1馬身差をつけて優勝。
ゴールでは鞍上の安田が手綱を抑える余裕を見せてクラシック初戦を制した。
競走後の記念撮影において、安田はシンボリルドルフ主戦騎手の岡部幸雄に倣い、馬上で「まず一冠獲得」を意味する人差し指を掲げ、「三冠獲り」を宣言した。
ダービー制覇
クラシック第2戦となる東京優駿(日本ダービー)、最終的な単勝オッズは皐月賞を上回る1.6倍と圧倒的な支持を集めた。
レースはスタート直後にスムーズに6番手につけ、直線で大外から抜け出す。最後は後続を突き放し、2着レオダーバンに3馬身差の快勝。
史上15頭目となる二冠馬となり、父シンボリルドルフと同様、無敗のまま二冠を達成した。
鞍上の安田は記念撮影で皐月賞に続いて馬上で二本指を掲げた。
レオダーバンに騎乗した岡部幸雄は「(安田が)3、4回ミスしてくれても敵わなかった」と述べた
シンボリルドルフの調教師・野平祐二は、「レースぶりはルドルフより余裕があった」と称えた。また東京優駿で8枠の馬が1着となった史上初の事例となった。
三冠挑戦の夢潰える
競走後には親子二代の無敗のクラシック三冠達成への期待が大きく高まった。
しかしテイオーは、表彰式を終えて競馬場内の出張馬房に戻る時点で歩様に異常を来しており、診療所でレントゲン撮影が行われ、レントゲンの結果、左後脚の骨折が判明。3日後には公式に「左第3足根骨骨折・全治6か月」と発表され、年内の休養と最後の一冠・菊花賞の断念を余儀なくされた。
トウカイテイオー骨折のニュースはNHKが一般のニュースと同じ扱いで大きく伝えた。
安田は「天国から地獄に突き落とされた気分でした」と振り返ったが、松元は「ダービーの前でなくてよかった、そう前向きに考えるようにしました」と振り返っている。
翌年1月に発表されたJRA賞では、無敗の二冠が高く評価され、176名の記者投票のうち134票を獲得して年度代表馬に選出された。さらに最優秀4歳牡馬、5頭のGI優勝馬を抑えて最優秀父内国産馬にも選出された。
デビュー当初の主戦騎手、安田隆行調教師の貴重なインタビュー
NECスーパーテレビ 情報最前線「熱狂250万人・ダービー夢の舞台裏」 (1991年(平成3年)6月3日)
第58回日本ダービーに出走するトウカイテイオーの関係者を取材しながら、ブームに沸く当時の競馬界を取材したドキュメンタリー。
これは貴重な映像。
長浜牧場の牧場主の方や、安田騎手がトウカイテイオーを外された時に泣いたという現調教師の息子さん達も出ています。
馬に係る人々の悲喜こもごも。
10か月ぶりの復帰戦で圧勝
翌1992年4月5日、前年の東京優駿から314日ぶりの実戦となる産経大阪杯から復帰する。
当時調教師試験に注力していた安田の事情、また将来の海外(日本国外)遠征の予定を踏まえ、本競走より騎手は国際経験が豊富で、父シンボリルドルフの主戦騎手・岡部幸雄に替わった。
当日は東京優駿から20キログラム増の480キログラムで出走、レースではイブキマイカグラや前年の有馬記念優勝馬ダイユウサクなどの強豪も出走したが、これらの凡走を尻目に、テイオーは岡部が鞭を抜かないどころか殆ど追う事も無く圧勝した。
最後まで届かなかった盾(天皇賞)
天皇賞(春)
無敗のまま迎えた天皇賞(春)は、本競走の前年度優勝馬メジロマックイーンとの「世紀の対決」が注目を集めた。
3200メートルで行われる同競走に対し、トウカイテイオーは2400メートル超のレースを未経験であったため、松元は「テイオーは本質的に中距離タイプであるのに対し、マックイーンは最強のステイヤー。天皇賞という舞台に関していうなら、我々はあくまでもチャレンジャーですよ」と語っていたが、大阪杯の競走前に普段は大げさな表現を嫌う岡部が発した「一杯になるという感じがなく、地の果てまでも走れそう」というコメントなどから問題はないと見られた。
一方、相手のメジロマックイーンは4歳時(1990年)の3000メートルで行われる菊花賞、本競走の前哨戦阪神大賞典も連覇するなど、充分な長距離実績を持っていた。また、鞍上の武豊が岡部の「地の果てまでも走れそう」というコメントに対して「あっちが地の果てなら、こっちは天まで昇りますよ」と応酬し、対決ムードを盛り上げた。
当日の単勝オッズはトウカイテイオーが1.5倍の1番人気、メジロマックイーンが2.2倍の2番人気となり、3番人気イブキマイカグラが18.2倍と2頭から大きく離れ、両馬の馬連オッズも1.5倍と非常に低くなった。
スタートが切られると、トウカイテイオーは前方4・5番手につけたメジロマックイーンの右後ろを追走。第3コーナーに入ってメジロマックイーンがスパートをかけるとトウカイテイオーはこれに反応して前方へ進出し、メジロマックイーンとの差を詰めにかかった。しかし最後の直線で失速、後ろから来たカミノクレッセ、イブキマイカグラ、ホワイトアローにかわされ、そのまま独走態勢に入って逃げ切り勝ちを収めたメジロマックイーンから10馬身近く遅れた、1.7秒差の5着に敗れた。
デビュー以来初となる黒星を喫し、レース後に松元は敗因について「距離の壁としか言いようがない」とコメントし、岡部は「考えていた通りの競馬ができたけど、直線半ばで、もういっぱいになってしまった。今日のところは相手が強かった、ということでしょう」と述べた。調教助手の北口浩幸は、「テイオーは良馬場でこそ力を発揮できるタイプだけに、荒れた馬場が災いしたのかも」と振り返った。
競走10日後には右前脚の剥離骨折が判明し、以降春シーズンは休養となった。この時診断した獣医は、骨折は東京優駿時と同じくレース開始直後に発生していたものではないかとしている。
一方で、この時の骨折についてシンボリルドルフの生産者・馬主の和田共弘は、「何日も分からなかったぐらいなのだから、たいした骨折じゃない」、安田隆行は骨折の影響について問われた際に「あれは勝敗とは関係ない」と述べ、いずれも競走能力に影響する程度ではなかったという見解を示している。
二風谷育成センターで療養したのち、9月に帰厩。本格的な調教を開始したが、半ば頃に38度を超す熱発に見舞われて3日間調教を休むといったアクシデントが起き、調整に狂いが生じた。
復帰戦はぶっつけ本番で臨む天皇賞(秋)となったが、松元は「時間的にギリギリになってしまった。正直言って、背水の陣です」と不安を口にしていた。
天皇賞(秋)
復帰初戦にも関わらず当日は単勝オッズ2.4倍で1番人気に支持されたが、レースはメジロパーマーとダイタクヘリオスが競り合い、前半1000メートル通過が57秒5という「殺人的なハイペース」となり、岡部との折り合いが付かず3番手を進んだテイオーは最後の直線で失速。先行勢は総崩れの展開となり、後方から追い込んだレッツゴーターキンの7着に終わった。
初めて掲示板を外す結果となり、レース後に岡部は「休み明けの馬特有の精神面の不安定さがモロに出た」、「2度も骨折したから、4歳時の脚を臨むのは酷かもしれない」とコメントしたが、レース後に談話を取りに来ていたアナウンサーに対し、荒れ果てた顔つきで「負けは負けだよ!」と叫んだ。
松元は「次のジャパンカップがピーク、というつもりでやってきたが、この負け方ではそんなことも言えない」とコメントした。
春、秋の天皇賞はいずれも一番人気に押されながらの惨敗。
この敗戦を受けて、
『トウカイテイオーはもう終わった』
『二冠は相手が弱かったから』
と言われるようにもなっていた。
生涯、トウカイテイオーは天皇賞を制することはできなかった。
驚きの復活、ジャパンカップ
続く第12回ジャパンカップ(1992年11月29日)は、当年から国際GI競走として認定され、イギリス二冠牝馬のユーザーフレンドリー(GI競走4勝、当年の全欧年度代表馬)を筆頭に、史上初めて現役のイギリスダービー馬が一挙に2頭来日、オーストラリアから全豪年度代表馬のレッツイロープ、フランスからはアーリントンミリオンの優勝馬ディアドクターなど世界中の強豪馬が集まり、そのメンバー構成は「レース史上最強」とも評された。
この中でテイオーは、日本馬では最上位ながら、天皇賞での惨敗を受けて、生涯最低となるオッズ10.0倍の5番人気にとどまった。
しかし、レースでは道中4・5番手を追走すると、残り200メートル地点で外から抜け出し、残り150m地点からナチュラリズムとの激しい叩き合いとなると、残り50m地点でクビ差抜け出して優勝。ゴール後、普段は冷静な岡部が珍しく右手でガッツポーズを上げた。
日本馬の勝利は1984年のカツラギエース、1985年の父シンボリルドルフ以来7年ぶり3頭目であり、同時にトウカイテイオーは日本競馬史上最初の国際GI優勝馬となった。
岡部にとってもルドルフ以来の優勝であり、ジャパンカップ史上初の2勝騎手となった。
1992年ジャパンカップ japanCUP(G1) トウカイテイオー 【岡部コール迄フル収録版】
失速の有馬記念
年末のグランプリ・有馬記念では、出走馬選定のファン投票で17万票以上を集め、第1位で選出。
しかし、12月19日の開催で岡部が騎乗停止処分を受けた。陣営はJRAから同日19時までに有馬記念でのテイオーの鞍上を発表するように要請され、松元がこの日阪神競馬場にいた田原成貴に電話で当日の騎乗を依頼し、これを了承された。
ジャパンカップとは一転して「絶好調」と報じられ、当日も単勝オッズ2.4倍の1番人気に支持される。しかしレースでは終始後方のまま、生涯最低の11着に終わった。
松元は敗因にゲートでトモを滑らせて腰の筋肉を痛めたことを挙げた。田原は腰の筋肉を傷めたことについてスタート直後にレガシーワールドと接触して腰を捻ったと述べ、加えて「追い切り(最終調教)の感触は悪くなかったが、追い切った後の2、3日で変わってしまった」、「返し馬に出たテイオーは、空気が抜けた風船のような状態になっていた」と回顧している。後にレース直前、寄生虫駆除のために下剤を服用していたことが分かった。
再びの長期休養
翌1993年1月3日、左中臀筋を痛めていたことが判明し、鹿児島県の山下牧場で休養に入る。
この時水面下では種牡馬となることも模索されていたが、結果的に価格が折り合わなかったため現役続行が決まった。
休養開始当初は体調を立て直す意味もあり、海岸での調教が積まれた。
【山下牧場】 最後まで見てね! 牧場からの素敵なプレゼントもございます。
3度目の骨折
3月に帰厩、宝塚記念での復帰を目標に調整されていたが、競走10日前に左前トウ骨の剥離骨折が判明し、再び休養に入った。
10月に栗東に帰厩し、この結果、復帰戦は1年(364日)ぶりのレースとなる有馬記念(12月26日)に決まった。
第38回有馬記念「奇跡の復活」
しかし、主戦騎手だった岡部はすでに当年の菊花賞優勝馬ビワハヤヒデへの騎乗が決定していた。そこで馬主の内村正則の意向によって武豊への騎乗も打診され、武は「自分のお手馬が出走しなければ乗ってもいい」と返答したが、主戦騎手を務める二冠牝馬ベガの出走が決まって断られたため、最終的に前年も騎乗した田原成貴で臨むこととなった。
競走前、松元は「力を出せる状態にはある」と発言したものの、田原は「順調に来ている馬相手では苦しいかも知れない」と不安を口にしていた。
1年もレースから遠ざかっていた馬がGⅠに勝つのは常識的にはあり得ないと思いながら、復帰を待ち、復活を信じるファンは4番人気に支持した。
田原は当日のパドックで落ち着きを感じたため力を出し切れると感じ、テレビ解説の席にいた大川慶次郎は「今日のトウカイテイオーは違いますね。『ああやっと芝の上を走れる』という感じがします。喜びに満ちたいい返し馬をしていますよ」と発言した。
大川は後に「この時に受けた感覚は、メジロマックイーンにも、トウショウボーイにも、テンポイントにも、シンボリルドルフにもない、それくらい、本当に素晴らしいできだったなと感じました」「あの返し馬は、本当に素晴らしかった。トウカイテイオーがサラブレッドとしてレースに走れることの無上の喜びに浸っているようで、実に印象的でした」と振り返っている。
当年は出走14頭のうちトウカイテイオーを含む8頭がGI優勝馬という顔触れであった。テイオーは前年の有馬記念から14kg増という馬体で出走し、単勝式ではビワハヤヒデ、レガシーワールド、ウイニングチケットに続く4番人気で出走した[。
レースが始まると、中盤まで後方待機策をとったトウカイテイオーは、2周目第3コーナーから徐々に進出。最後の直線に入ると先に抜け出したビワハヤヒデを追走し、ゴール前の競り合いを制して半馬身差で優勝した。
ゴールの瞬間、フジテレビで実況中継を務めた堺正幸は「トウカイテイオー、奇跡の復活!」と実況、田原は優勝騎手インタビューにおいて、「この勝利は、日本競馬の常識を覆したトウカイテイオー、彼自身の勝利です。彼を褒めてやって下さい」と涙を流しながら語った。馬主の内村正則は後に「本当に田原君に乗ってもらってよかった」と振り返っている。
前回の出走から中364日でのGI勝利は長期休養明けGI勝利の最長記録となり、現在まで破られていない。この勝利が評価され、翌1月にはJRA賞特別賞を受賞した。
1993(平成5)年 トウカイテイオー ☆ 第38回 有馬記念 完全中継 (+ 中央競馬ダイジェスト)
当時の状況を詳しく伝える秀逸な現地観戦録
4度目の骨折、引退
翌1994年も現役を続行、天皇賞(春)を目標に調教が進められていたが、復帰予定の大阪杯を右トモの筋肉痛により回避。
これを受け宝塚記念を目標に定めたが、4月14日に前回故障の患部である左前トウ骨をふたたび骨折し、4度目の休養に入った。
4月18日に内村がこの年の天皇賞(秋)を最後に引退し、翌年春から種牡馬入りすることを発表。
以後は引退レースとなる秋の天皇賞に目標が切り替えられたが、状態の回復が思わしくなく、天皇賞に間に合わないとの判断から、8月27日に松元から引退が正式に発表された。
10月23日東京競馬場で引退式が挙行された。当日のメイン競走はオープン特別競走であったにもかかわらず、重賞が行われた前週を1万人超上回る、10万6179人のファンが訪れた。
馬場では田原が騎乗、ダービー優勝時のゼッケン「20」を着けた姿がファンに披露され、安田隆行(当時調教師に転身)、岡部幸雄も出席した。
田原騎手は、
「有馬記念での2分30秒9は、私のこれまでの人生で最も充実した素晴らしい時間でした。あなたのおかげで、競馬のことが少しだけ分かってきた気がします。ありがとう、トウカイテイオー」
と謝辞を述べた。
種牡馬時代
引退後は一口1500万円×60株、総額9億円のシンジケートが組まれ、1995年より社台スタリオンステーションにて種牡馬として供用された。
有馬記念優勝の影響もあり、初年度より多数の良血牝馬を集め、初年度から100頭の繁殖牝馬と交配され、以降も頭数は77、104、111、119、89頭と推移した。
1998年に初年度産駒がデビュー。初年度から安定した産駒数を得ていたが、同年のフレッシュサイアーランキングではサクラバクシンオー、フジキセキ、ウイニングチケットらの内国産種牡馬に後れを取る9位となった。ノボエイコーオーなど重賞で上位に入る産駒もいたものの、全体的に仕上がりが遅く、また気性の強さが入れ込みに繋がるタイプの産駒が多かった。
2001年以降トウカイポイントがマイルチャンピオンシップを、ヤマニンシュクルが阪神ジュベナイルフィリーズを、2005年にはダート交流GIへ昇格したばかりのかしわ記念をストロングブラッドが勝利し、種牡馬としても一定の実績を残している。
2009年11月7日と11月8日、東京競馬場にて展示された。2011年7月24日には函館競馬場に来場した。
社台スタリオンステーションではトウカイテイオーの種牡馬入りと同時に施設内にファンやクラブ会員が自由にパドックを見学でき、軽食やグッズ販売をするショップ「オン・ザ・グリーン」と「グリーン・テラス」が開設されたが、そのテラスから最も近いところにトウカイテイオーは放牧されていた。
しかし、高齢となったことで公開放牧を見合わせるようになり、以降はトウカイテイオーに代わってディープインパクトが放牧されるようになった。上記の2011年の函館競馬場でのお披露目が、トウカイテイオーが公に見せた最後の姿となった。
死
2013年8月30日、社台スタリオンステーションの馬房にて心不全を起こして息を引き取った。
25歳没。
この年の種付けシーズンを終え元気に過ごしていたが、同日放牧地から戻った後に息を引き取ったという。
【悼む】岡部氏「テイオーに差されたなら仕方ない」
「Good looking horse」としての魅力
トウカイテイオーの実力もさることながら、流麗な容姿も人気の要因であった。
トウカイテイオーの魅力は何と言っても、貴公子と呼ばれていたほどの気品ある姿と優雅な走りです。
バランスのよい精悍な馬体と小さな顔。顔にかかる前髪が美しく、また、前髪の間から見える思慮深く、気品あるまなざしが「貴公子」と呼ばれる所以であった。
トウカイテイオーが生まれた長浜牧場の長浜恵美子氏は、生まれた直後から気品が感じられたとコメントしている。
種牡馬入りした後も見学にくるファンのイメージを壊さないように、前髪は長めに切りそろえていたという。
独特の美しい歩容
また、歩き方の美しさにも定評があった。
トウカイテイオーは全体に細身で、見栄えのするタイプではなかったが、薄い皮膚につつまれた筋肉は柔らかく、なによりもバネがあった。
パドックでは後肢を鳥のように跳ね上げる、「鶏跛(けいは)」と呼ばれる歩き方が特徴的だった。
身体が柔らかく、騎乗した人は誰もが「乗り心地がよい」と感嘆し、その柔らかさは独特の歩き方にも現れ、歩くたびに関節がやわらかく動くので「ネコのように歩く」とも言われた。
その柔らかさに騎乗した岡部幸雄騎手や田原成貴騎手は「フワフワして力強さが足りない」と不評であったが、後に田原成貴騎手は車に例えて「ポルシェにベンツを取り入れたらポルシェの良さを失ってしまう」とコメントしてトウカイテイオーの柔らかい脚さばきを評価している。
【ウマ娘】第13回:奇跡の名馬「トウカイテイオー」の物語